「遊びの中にある学びとは?」をさまざまな方にインタビュー
天野秀昭さんインタビュー前編
遊ばないと、心が死んでしまう
子どもにとって「遊び」は「魂の活動」
2015.11.17
日本冒険遊び場づくり協会 事務局長/理事(取材当時)
天野 秀昭(あまのひであき)
たかが遊び、されど遊び
遊びって、壊すこところからはじまっている
子どもにとっていい遊び(場)というのは、恐らく子ども自身が自分の力で壊せるものがどれだけあるか。あの子たちが自分の意思で、自分の力でぶっ壊していけるものがどれだけあるかが、いちばん大きいと思う。というのは、壊せないものは作ることができないから。遊びって、最初はみな壊すところからはじまっているんです。
赤ちゃんだって、新聞持たせたら破るでしょ? 最初、グチャグチャやりながら破る。で、あの感覚をなん度もなん度も知りながら、新聞というものの性質がわかっていく。その内に、「手をこう動かすとこうなって….」ってわかってきて、折ったり、まるめたりするようになる。それは、新聞紙の性質を知りながら、新聞紙とコミュニケーションする力を育ててるわけです。
たとえば、赤ちゃんの手ではどうにもならないような、大人にはきれいに見えるプラスチックボールをあげたって、壊すことができないから、すぐあきちゃう。自分自身の力を働きかけて、変化を加えることができるものがあればあるほど、子どもは自分の世界をそれに向かって表現しようとする。それが、「その子」と「その物」との対話(コミュニケーション)なんです。
大人が使い方を決めたものというのは、子どもはそれを使って遊ぶだけ。壊してはいけないから、使って遊ぶだけ。正しい遊び方なんていうのは、大人が決めてるだけなんです。逆にいうと、子どもが壊していいっていうのは、正しい使い方が決められてないものってことになる。
穴掘りは、自分の世界の確認と限界への挑戦
僕の関わっている『プレーパーク』で考えると、土の地面がまずそう。砂場もそうですね。で、子どもが穴を掘れる。穴掘りっていうのも、壊すことの一つなんです。でも、街の公園のややこしいところは、「地面に穴掘っちゃいけない」って言われてるから、壊せる素材だけど壊しちゃいけない。
子どもは穴を掘ってくうちに、「落とし穴作ろう」とか「もっともっと掘ってくと、何が出てくるんだろう」とか、いろんな事が思い浮かんできて、その子の世界がそこに登場してくる。穴を掘るっていうのは、自分自身の力を働きかけて、相手が変化していくということで、自分の世界と自分の力の確認なんです。
「どこまで掘れるんだろう」というのは、自分の世界の限界の確認だし、自分の限界に対しての挑戦みたいなところがあるわけです。そういうことをやりながら、自分の世界をつくりあげている。なんの変哲もないように感じるけど、遊ぶってそういうこと。いつだって、自分自身の世界が出てくる。
テレビゲームやってる絵を描いた学生は一人もいない
テレビゲームとかは遊びというより、学校教育に近いと僕は思っている。だって、大人がプログラムを決めてるし、しかもそこで展開するものは全部点数化されるんですから….、よその人によって。
自分自身の世界をそこでは展開することは不可能で、プログラムされたこと以外はできない。あとは、それを攻略するとか消費するってだけの話ですよね? だから、そういう意味では、自分の世界の展開にはなっていかない。
教えてる大学生たちに、子ども時代のことを思い出してもらって、日記みたいに絵を描いてってもらうんですけど、テレビゲームやってるシーンを描いた学生は過去に一人もいないよ。このゲーム世代ですら。しかも、屋内で遊んだシーンすら出てこない。ほとんど屋内で過ごしたはずなのに、9割以上が屋外を描く。わずかに乗った、公園のブランコのシーンとか。
情動が動くから、自分のアイデンティティーがつくられる
どうしてかというと、ようするに情動が動いたものが長期記憶に入ってくるんで、テレビゲームって情動がそんなに動いてない。だって、五感使ってないから。目で見て指は動いてるけど、あの画面の中で煙にまかれたって煙くない。殴られたって痛くない。刺されたって死なない。だから、エピソードと情動がつながってないんです、ぜんぜん。
それがバシッとつながったものが、長期記憶に入って本人を形づくる。だから、実際に「叩かれた。痛い!」っていうのは、もうつながっている。寒い冬の朝に、バケツの中に氷が張ってて、持ったら「冷たい!」っていうあの手の感覚は、記憶に残ってるわけです。自分の行為とエピソードの中にある情動が、バッチリ一致しているからね。
テレビゲームでのエピソードは、あくまでバーチャルな世界。そこの中に情動はないので、記憶に残りにくい。学生に時間をかけて聞きだしていけば、「あのゲームの攻略法はこうだった」と思いだすとは思うけど、情動に残らないので、最初に出てくるエピソードにはならないんです。
学生の中には、子ども時代のことを思い出せないって子もけっこういる。たぶん、ちゃんと遊んでないから、情動があまり動かなくて、自分のアイデンティティーの根幹が作られてなかったんだと思う。
昼間よく外で遊んだ子は、夜ちゃんと寝る
情動をじゅうぶんに使ってないと、自律神経とか内分泌系や免疫系にも悪い影響がでてくる。例えば、体に変調をきたしたり、ウィルスに感染しやすくなったり、精神的な疾患になったり….。ようするに、情動をいっぱい動かさないと、心も体もちゃんと発達していかないんです。
子どもが「ワー」とか「キャー」って遊んで、情動をたくさん動かして、快と不快の世界をいっぱいやっていると、内分泌系がものすごく活性化してくる。さらに、お日さまにあたれば、代謝もとても活発になってくる。昼間よく外で遊んだ子は、夜ちゃんと寝るっていうのは、そういう体を調節する化学物質が活性化するっていうことも大きい。
大人にとって手のかからない子は、思春期以降に問題が出る
大人の言うことをきちんと聞くことだけ教えられていると、自分の情動を動かさないように動かさないようにってことを、ずっとし続けることになる。自分のやりたいことは引っ込めて、やりたくないこともやらなきゃいけないんだったらやるし….って。こうなると、体も精神もおかしくなってくる。記憶もちゃんと持てないしね。
大人にとっては手のかからないいい子だけど、思春期以降に大きな問題として出てきてしまう。思春期うつだとか、友だちとのコミュニケーションがうまくできなくて悩んだり。さっき言ったように、コミュニケーションは異質なものとやり取りするわけだから、子どもの頃に、うっとうしさや面倒くささを超えた先にある「楽しい遊び体験」をたくさんしておく必要がありますね。
大人の正しい発言が、子どもの力を奪っていく
だけど、大人は「ルールを守りなさい」とか、正しさだけで言う。たとえば、公園のすべり台で子どもどうしがはしごの階段のうばい合いをしてたら、「ちゃんと順番守りなさい」とかって言うじゃない? ああいうようなものが、子どものコミュニケーションを阻害するわけです。
だって本来だったら、子ども同士でなんとかすればいいわけなのに、そこに大人が割り込んで、大人の指示によって子どものコミュニケーションを整理してしまうわけですよね? この時点で、つまり遊育をしようとしてるタイミングで、大人が教育でコントロールしてるんです。
そういうことを普段やっていると、子どもが自分で解決しようとする力が、根本的に奪われていく。で、つねに大人の指示をあおぐことになる。「これやっていいですか?」とか、「あの子、はしごを取っちゃうんだけど、なんか言ってください」とかね。そんなものは、「子どもたちで解決したら?」って話ですよ(笑)。
子どもどうしの解決する力は、遊びの中でしか育たない。なのに、大人がつねに仕切っていると、彼らはそれを自分たちでつくり上げられるものだとわからなくて、つねに大人の指示を受けながらやらなければいけないと思ってしまうようになるんです。
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