「遊びの中にある学びとは?」をさまざまな方にインタビュー
天野秀昭さんインタビュー前編
遊ばないと、心が死んでしまう
子どもにとって「遊び」は「魂の活動」
2015.11.17
日本冒険遊び場づくり協会 事務局長/理事(取材当時)
天野 秀昭(あまのひであき)
「遊ばないと、心が死んでしまう」と語る天野秀昭さん。日本ではじめてプレーリーダーという職業(子どもがいきいきと遊ぶことのできる環境をつくる役割)に就いて以来、36年にわたり子どもの遊びに関わり続けています。
たくさんの子どもたちを見てきた天野さんに、「子どもにとっての遊びの大切さ」をさまざまな角度から語っていただきました。聞けば聞くほど、遊びの世界の奥深さに、子育て中の親なら誰もがドキッとさせられるハズです。
子どもにとって遊びとは?
自分がやりたいからはじめるのが遊び
36年間、子どもの遊びに関わってきて、遊びをひと言で言うと「魂の活動」です。知れば知るほど、そうとしか言いようがない。
ご飯を食べないと体が死んでしまうように、遊ばないと心が死んでしまう。今、そういう子どもが増えているけど、外からは見えないから、大人はなかなか気がつかない。その原因を、家庭や教育の環境のせいにすることが多いようだけど、僕は遊び環境のせいだと思っている。
親は子どもにいろいろしてあげたくて、サークルやクラブ、習い事、稽古、いろんな所に行かせている。だけど、遊ぶって行為は自分がやりたいからはじめることで、誰かにさせられることではないんです。
自分がやりたいからはじめることは、自分が関心を持ったこと以外はないですよね? だから、その子の中の世界が全部でてくる。関心を持つということは、その子の中に何か引っかかりがあるわけで、それぞれの子どもによってみんな違うんです。
遊びの中には、その子自身の世界があらわれる
だから、集団遊びを、子どもたちが自分で「はじめる」分にはいいですが、集団遊びを子どもに「させる」ことはムリなんです。よく大人がそれをさせようと思って「さ、おいで」と言って、他の子どもたちの中に引っ張りこもうとするけど、シブシブ行く子にとってみれば、それは遊びになってない。もちろん、集団が楽しい子にとっては遊び。
僕はよく「鬼ごっこは遊びですか?」って親に聞くけど、大半の人は「遊びです」って答える。じゃ、「やりたくない」「一人でいたい」と思う子に、「ダメダメ、みんなでやることに意味があるから」って言うのは、「その子にとってそれは遊びだと思いますか?」って聞くと、ほとんどの人が手をあげない。それをみてると、親はちゃんと遊びの本質はわかってるんだと思う。
つまり、鬼ごっこや缶けりやエスケンは、それ自体が遊びなのではなくて、その子の「やってみたい」「やりたい」っていう動機が遊びの本質。
鬼ごっこを一緒にやりたい子もいるし、虫取りを一緒にできる子もいる。高い所に登るのが好きな子もいるけど、高いところは怖くて登れないっていう子もいる。なにか見ると、すぐに関心を持ってパッと走りだす子がいたり、じっくり観察してから動く子もいますよね? 本を一緒に読んでても、片方は熱心に読んでるけど、もう片方は本を読むのがあまり好きじゃなくてヒマでしょうがないってこともある。
その子ひとりひとりの持っている気質とか、育ってきた環境とか、いろんなことがその子の中で影響し合って、その子の「やってみたい」という世界をつくりあげている。だから、遊びの中には、その子自身の世界があらわれてくる。
その子が遊ぶということは、その子自身の世界を表現して作り込んでいくということ。で、それがどこにつながっているかというと、「私が生きている」って実感です。他の人ではできないたったひとつの世界、唯一無二の。だから、自分が生きているという実感は、遊びの中に存在している。
遊びを止められると、生涯不安定な子どもができてしまう
自分を取り戻して、自分自身をその中で広げて深めていく。僕はそれを「遊育」って言っている。「教育」というのは、文字を分解すると、教「える」だから「育てる」だけど、遊育は遊「ぶ」だから「育つ」。主体がぜんぜんが違うことがわかると思う。
「教育」の方の主体はおもに大人で、教育として価値を感じていることを教えるわけだから、価値を感じないことは無視しているというか、気がつかないわけですよね? 場合によっては、無価値と判断して禁止までする。
「遊育」の方は子どもが主体。自分にとって意味があって価値があることをやっているので、自分は遊びながら育っていく。遊びという手段を通して、自分の世界を広げていくし、自分の世界を深めていく。だから、遊ばないと心が死んでしまうんです。体は生きてられるけど。
大人だって、趣味があったり、いろいろ自分の好きな世界があって、それに時間を使ってるときは夢中になる。イヤなことがあっても、好きなことすれば、気分が浄化されてスッキリすることがある。大人になっても、遊びは自分の世界を取り戻していく作業なんです。
大人からだって、遊びを除いたら味気ないものだし、それで日常生活の「ねばならぬ」世界だけで生きていかれるかというと、たぶんそれは難しいと思う。「ねばならぬ」ではなくて、やっぱり自分自身が「やりたい!」って思うから始めていく世界で、それはその人が生きるってことの本質に関わっている。
とくに子どもの場合は、遊育は発達と大きく関わっている。そういう意味では、大人の遊育とは根本的に持ってる価値が違う。大人はすでに根っこを育てる時期とは違うけど、子どもは自分自身の根っこを育てているところなんです。
とくに乳幼児期の遊びが重要と言われるのは、自分の中の根っこを育てる時期だからです。この時に強く大人の意思が働いて、本人の遊育が止められると、たぶん生涯不安定な子どもができてしまう。今、ほんとうにそういう子が増えてる。
遊びの世界は、私の私たるゆえん
「教育」と「遊育」が対立するわけではないです。教育する側が、遊育の価値をきちんとわかっていれば、遊育を活かすことができます。
例えば、僕が関わっている『冒険遊び場』は大人が作った場所ですけど、子どもの遊育をできる限り保障しようとして作った場なんです。つまり、遊育の価値を感じた大人が「遊育を保証するために作った教育の場」ということ。
でも世の中の大人たちはそういう人ばかりではなく、自分の価値観以外は価値がないと思っている人も少なくない。自分の言うことを聞かせることを、至上の目的にしている人ですね。そういう人には、子どもが遊育している姿は「なにバカなことやってるんだ」としか映らない。
子どもって、その子にとって価値あることでも、よそから見ているとワケがわからないことがいっぱいある。大人が遊び名を付けられることばかりじゃない。イメージで遊んでる子が地面に座ってジーっと何かを観察してる姿は、まわりから見ると「あの子の中で何が起こってるんだろう….、なにしてるんだろう」って思う。必ずしも、大人が「あ~、なるほど」っていうようなことばかりじゃないんです、遊育の世界って。
大人で考えると、フィギュアとか好きな人かな(笑)。ちょっとした部品の変化がとても大きなことらしいけど、はたから見てるとどうでもいい気がしたりね。でも、その人にとってはものすごく重要な世界。遊ぶって、おうおうにしてそういうところがある。
みんなが理解できて、みんなが重要に思ってるようなことばかりではぜんぜんない。つまり、遊びの世界は「私の世界」だし「私の私たるゆえん」みたいなところがある。そういう意味では、魂の活動ということになる。
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