「遊びの中にある学びとは?」をさまざまな方にインタビュー
天野秀昭さんインタビュー前編
遊ばないと、心が死んでしまう
子どもにとって「遊び」は「魂の活動」
2015.11.17
日本冒険遊び場づくり協会 事務局長/理事(取材当時)
天野 秀昭(あまのひであき)
遊びから子どもが得ているもの
大人の価値観は、子どもの情動とは別の世界
子どもは、遊びをとおして何かを学んでいるのか? 「やりたい」「やりたくない」というのが遊びの本質であるわけだから、「快」と「不快」を感じとっているということだと思う。快と不快というのは感情とか情動の世界で、おもしろそうだから「やりたい」わけですよね?
大人は「正しいか、間違ってるか」、「善か悪か」を価値観として子どもに教えたいけど、価値観と情動は別の世界なんです。正しいからやりたいわけじゃないでしょ?
例えば、「この料理、おいしいから食べてごらん」て言われても、まずそうだったら食べたくない。栄養価満点のステキな料理だから食べたいわけではなくて、おいしそうかどうかで決まるわけだよね。だから、正しさは快にはつながってない。逆に、悪いことでも快につながることがたくさんあるし、正しくったってやりたくないものはやりたくない。
恋愛で考えると、いい人だから惚れるわけじゃないでしょ? 結果的にいい人だったりするかもしれないけど(笑)。でも、惚れるっていうのと、つねに行いのいい人っていうのは、イコールではないよね。
とはいっても、大人になると社会の価値観とか規範が、快と不快に影響することってたくさんある。大人はもうできあがっちゃってるからね。例えば、男らしさ女らしさ。この「らしさ」信仰が強い人は、家事をしない女性のことを不快に思ったりする。それって、価値観がちょっと変われば、家事なんていうのは、暮らしてればすべて出るのだから、みんなが分担するのが当たり前だと思えて、別に台所に立たない女性のことは不快でもなんでもない。
遊びは、生きる力の根源そのものをつくっている
子どもの場合は社会規範を身につけてないので、快と不快はもっと生物的だし動物的。とくに乳幼児が表に出してくる快と不快は自分自身にとって根源的で、生きるか死ぬかみたいな命と直結している感覚なんです。脳でいうと真ん中の奥の方の動物脳といわれている部分。大人は表面の大脳皮質を使っていて、これは社会的な脳って言われている。
遊ぶっていうのは、動物脳を使っているんです。だから、「遊びから何を学んで、何ができるようになるか」ではなくて、体とか生きる力の根源そのものをつくってるって言ったほうがいいかもしれない。つまり、子どもの頃の快と不快は、その後の自分自身を決定していく。
大人になってから子ども時代のことを思い出すというのは、それはかなり古い出来事の記憶ですよね? でも、その時の記憶が自分自身のアイデンティティーを作っていく根源だったりしている。
どういうことかというと、人間は細胞分裂と新陳代謝を繰り返しながら生きていて、3か月もすると細胞レベルでは別人だといわれている。でも私は私ってことは変わらない。その根拠は記憶なわけです。記憶が変わらないから、私が私であるってことをずっと保持してられる。
遊育したことが、長期の記憶となって残る
とすると、古い記憶をたくさん持ってれば持ってるほど、その人の根源は非常に安定するわけです。この長期にわたる記憶ってどうやって形成されるかというと、まさに情動を動かしたエピソードなんです。
僕は大学で授業してるけど、学生に子ども時代のエピソードをたどってもらうと、大人が出てくるってあまりない。子どもどうしで遊んでるとか、一人で何かに集中してるというのがわりと多い。どうしてかというと、遊育してるから。主役は私で、自分自身の情動が活発に動いているから、遊びの世界が長期の記憶になっている。
もちろん、あえて大人との関係をエピソードの前提条件にすれば、大人も出てくるんだろうけど、そういう前提なしだとほぼ出てこない。
自分を殺す世界ではなく、活かす世界が遊育
子どもが大人に言われて、イヤでもやらなければいけないときというのは、むしろ自分の情動をおさえなければいけない。「いやだ」というのが情動だけど、情動をおさえないと言われたことができないですからね。逆に、大人にダメといわれても、「やりたい」っていう情動もある。でも、大人はそれを禁じてしまった。
ということは、子どもは大人といるときは情動を抑えないと、大人の言うことを聞けないんですよ。動物としての快と不快を殺していかないと、大人の言いぶんには従えないってことになる。それで、あまり記憶に残らない、自分を殺しているから。
自分を殺す世界じゃなくて活かす世界が遊育だから、自分を活かしてる時というのがいちばん心が動いていて、それが自分の中のさまざまなものをつくっていくわけです。
大人には快適でも、子どもは体をつくれない
子どもが遊ぶときに使っている動物脳は、「楽しい」「イヤだ」という情動や、「ねむい」「お腹がすいた」という本能的な欲求のほかに、意識しなくても体の機能を動かしてくれる自律神経、さらにホルモンや神経伝達物質などの内分泌系もコントロールしている、とってもたいせつな脳なんです。
例えば一日外で過ごすと、それだけでものすごい体温調節が必要になる。日にあたってポカポカしたり、風が吹いて肌寒くなったりするから。でも、部屋の中にいると空調があるから、体温調節しないでも、環境の方が人間にあわせてくれますよね? 大人にとっては快適だけど、子どもにとっては、これじゃ体がつくれないんです。
だから、乳幼児から外に出るって、とても重要なことなんです。この時期に大人と同じ快適な世界に入れてしまうと、体温調節などをする自律神経機能自体が育たないから、体温調節ができなくなって、発汗もうまくできない。それで、小学生になってから熱中症の子がでてくる。
遊びながら、その子が必要なことを自ら選びとる
そういう人間の基本機能のようなものは、乳幼児の時期がものすごい発達段階にあって、だいたい3才位までにほぼ決まってしまう。だから、まだ産まれて間もない赤ちゃんの段階で、外に出て遊ぶというのは、とても重要なこと。
とうぜん、感覚器官も発達している時期。だから、泥とか石とかいろんなものを触って、「ニュルニュル」「ゴワゴワ」「ネチャネチャ」「ザラザラ」とかを子どもが体験することで、ものすごく感覚器官の発達を促してるわけです。でも、部屋の中って、「スベスベ」「フワフワ」「フカフカ」とか、大人にとって気持ちいいものばかりですよね?
昔、歩きながら壁にズルズルって手をはわしたりしなかったですか? でも、大人になった今はやらない。それって、その時は必要だからやってたんです。あの時期にあの感覚がインプットされることで、脳細胞がビーって伸びてるわけです。だから、その時期に自分でとってる。遊びながら、その子が必要なことをその子自らが選びとっているんです。
砂でザラザラやったり、固い石をギューとにぎったりは、あの時期にあの感覚が必要だからやっている。ご飯でネチャネチャやる子もいて、大人は「ご飯で遊んじゃダメ!」って言うけど、必要なんです、あの感覚が。でも、ふだんから外で遊んで、泥をいじってる子は、ご飯でネチャネチャはあまりしない。同じ感覚が泥遊びにはあるからでしょうね。
子どもは、遊びの中で命そのものを育てている
感覚器官というのは、いろいろな感触のものをいっぱい触らないと育たない。もちろん、触るってことだけじゃなく、いわゆる五感といわれる「見る」「聞く」「嗅ぐ」「味わう」「触る」。これは、どれも心を育てるためのセンサーでもある。心を自分の中の世界だとすると、外の世界との接触は、センサーである五感を通じて全部やっている。
見て、刺激を受ける。聞いて、味わって、嗅いで、触って、刺激を受ける。五感に対する働きかけが多様であればあるほど、外の世界とちゃんとつながっていくんです。その感覚を、きちんとした遊び環境さえあれば、あの子たちは自分で選びとるわけです。それが、遊ぶということ。だから、遊びの中で、子どもは総合的に育っていく。
大人が言うように、例えば英語がしゃべるようになるとか、字が読めるようになるとか、そういう何かができるようになるというのとは、まったく別のところなんです。そう、命そのものを育ててるってこと。だから、早期教育とか英才教育なんてやってる場合じゃないって、僕は思っている(笑)。
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